耽美派の小説で有名な、谷崎潤一郎の代表作のひとつ「痴人の愛」について紹介します。
心情描写が非常に繊細で、恋愛への憧憬、浮気に対する喪失感や苛立ちのような感覚などの表現が秀逸な作品です。
ストーリーの構成としては非常にシンプルで読みやすいですが、読み進めるうちに主人公の感情がまるで自分自身の感情のように感じられてくるのは、現代の私たちでも共感可能な普遍的な愛や恋の感情なのかなと思いました。
物語の登場人物や、ヒロインのナオミに焦点を当てて、それぞれがどんな感情で行動しているのかなど、考えながら読み進めるのも面白いと思います。
「痴人の愛」とは?
1924年から1925年に連載された、谷崎潤一郎の小説作品です。
内容としては、恋愛小説ということになるかと思いますが、結婚や浮気などの部分に対する心情描写が非常に繊細な作品となっています。
本作に登場する、ヒロインの「ナオミ」という女性は、当時では珍しい奔放な女性として描かれ、奔放で自由な女性像として「ナオミズム」という言葉が生み出されるブームが起こりました。
この結果、当時は西洋的な名前として捉えられていた「ナオミ」という名前が、日本人女性の名前に用いられるようにもなりました。
作者名 |
谷崎潤一郎 |
発売年 |
1925年 |
ジャンル |
恋愛 |
時代 |
大正時代 |
谷崎潤一郎のプロフィール
谷崎潤一郎は、1886年から1965年に活躍した小説家です。時代としては、明治の末期から昭和の中期までという、長い期間執筆活動を継続していました。
活動の時期に伴って作風も大きく変化した作家ですが、初期の頃は耽美派の代表的な作家として活動していました。
今回紹介する「痴人の愛」はじめ、作者の代表作とされている「細雪」も耽美派の作品となっています。
また、谷崎は大変な美食家としても知られており、「食」についての考えを小説に入れたり、文章として残したりということも行なっていました。
「痴人の愛」の特徴
当時の小説作品では珍しい、奔放な女性が登場するのが特徴的な部分になっています。
また、売春婦のような振る舞いで男を虜にする女性というのは、当時は非常に衝撃的な作風だったのではないかと伺えます。
当時は現在よりも「男性社会」の側面が強かったため、この作品の主題とする「女性崇拝」というのは、非常に新しい考え方、感覚であったと推測できます。
「痴人の愛」の主要登場人物
譲治(じょうじ) |
物語の主人公。真面目なサラリーマンだったが、カフェで偶然見かけた「ナオミ」という女性に恋をして、彼女の金銭的な支援をしながら一緒に暮らすことになる。 |
ナオミ |
カフェの従業員として働いている。後に譲治に資金援助を受け、彼と同居するにいたるが、徐々に本性を表す。 |
熊谷(くまがや) |
ナオミの友人。慶応大学に通っている学生。 |
浜田(はまだ) |
ナオミの友人。浜田と同じく、慶応大学に通う学生で、ナオミとは音楽教室で出会った。 |
「痴人の愛」の簡単なあらすじ
電気技師として働く、真面目なサラリーマンの譲治は、ある日立ち寄ったカフェにて非常に美しい女性と出会います。
その女性は、カフェで働いているらしく、名前を「ナオミ」というそうでした。
彼女を育て、ゆくゆくは結婚をしたいと考えた譲治は、ナオミに資金援助を持ちかけ、一緒に暮らすようになります。
最初の頃こそ「ままごとのように」大人しく暮らしていたナオミでしたが、成長に伴って徐々に魔性が花開き、本性を表し始めます。
己の魔性を使って、ナオミが近隣の大学生や、外国人の男性と関係を持ったことに勘づいた譲治は、怒ってナオミを部屋から追い出します。
しかし、ナオミのことが忘れられない譲治は、ナオミがいなくなった後も、彼女のことばかりを考えてしまいます。
しばらくすると、ナオミが「忘れた荷物を取りに来た」と、譲治の部屋へ来訪します。その後もたびたび譲治の部屋に訪問しては、何か取りに来るのでした。
この頃には、譲治はナオミの虜になっていました。
そして、譲治はナオミの奴隷として彼女が望むままに金銭支援を行うことを決めるのでした。
「痴人の愛」の起承転結
【起】「痴人の愛」のあらすじ①
主人公の譲治は電気技師として働く、ごく普通の28歳のサラリーマンでした。
真面目な男性で、女性と恋人関係になったことや、結婚に対する思いなどもありませんでした。
しかし、その考えは世間を知らない女性(娘)を引き取り、良い女に育てて結婚したいという理想から来るものでした。
そんな譲治が、ある日浅草で立ち寄ったカフェで理想にしていた娘と出会いました。
彼女はナオミという名の少女で、西洋人のように美しい顔立ちをした、無口な女性なのでした。
ナオミに一目惚れをした譲治は、彼女を誘って食事や映画へ行くという風なデートを重ねます。
そんなデートで関係性を深めた二人は、譲治の当初の思惑通り、大森という場所に洋館を借り、二人での生活を始めることになりました。
【承】「痴人の愛」のあらすじ②
二人での生活を始めるにあたり、資金面の面倒を見ている譲治の方が、ナオミに友達のように、飯事のように生活をしようという提案をしました。
当初はナオミの方も、そんな譲治の意見に相違ないという態度で従っており、娘と保護者のような関係性を保っていました。
しかし、ナオミが16歳の時分にその一線を越えて、二人は肉体関係を持ってしまうのでした。
この間も譲治の方は変わらず電気技師の仕事を続けていました。
ナオミの方は譲治が理想の女性とすべく、英語や音楽という習い事へ通わされるのでした。
習い事へは通うナオミでしたが、彼女の飽きっぽい性分と、生来の物覚えの悪さで、知識や技能の向上は遅れていました。
それが目につくたび、譲治が厳しく指導するのですが、ナオミの方は小言を言われるたび譲治に反抗的な態度にでます。
最初こそ、譲治の方も厳しくしていましたが、ナオミに反抗的な視線を向けられるごとに、その視線に対して譲治は快感を覚えるようになっていってしまいます。
そして、そんなナオミの振る舞いに、譲治の方が徐々に虜へなっていってしまうのでした。
【転】「痴人の愛」のあらすじ③
二人での生活も板についてきたある日、仕事を終えた譲治が帰宅すると、玄関先でナオミが若い男と立ち話をしている場面に遭遇しました。
譲治がナオミに話し相手の男性のことを聞くと、ダンスを習っている浜田という友人だと答えます。
ナオミに話を聞いた譲治が、ナオミが通っていると言うダンスホールへ足を運んでみると、浜田や熊谷という譲治が知らない多くの男性とナオミは親しそうにしているのでした。
ある時、譲治とナオミの二人は、知り合いから紹介されて十日間鎌倉の旅館へ訪れることになります。
譲治の方は、鎌倉へいる間も東京に通って仕事を続けていましたが、ある日仕事から鎌倉の旅館へ帰ると部屋にいるはずのナオミの姿がありませんでした。
どこへ行ったのかと心配した譲治が旅館の女将に話を聞くと、熊谷と二人で出かけるのを見たと返されます。
女将に聞いた通りに海の方へ向かった譲治は、ナオミが熊谷含める四、五人の男性と戯れているところへ遭遇しました。
譲治はナオミを連れ帰って問いただしましたが、ナオミは何も話さないため大森の洋館へ戻ることにしました。
洋館の方へ到着すると、浜田が誰かを待っている様子でした。
後から分かったことですが、鎌倉から譲治が仕事に行っている間にナオミは大森へと移動し、浜田と密会した後に鎌倉へ戻って熊谷たちと行動していたところだったのでした。
この事件の後、譲治はナオミに熊谷や浜田と会わないよう約束を取り付けます。
しかし、納得いかない風なナオミは、譲治と口を聞くことが少なくなり、反省の素振りも見せませんでした。
そんな具合に暮らしていた時、譲治はナオミがまだ熊谷と密会を続けていたことを突き止めました。
我慢の限界に達した譲治は、ついにナオミに出ていくよう怒鳴りつけました。ナオミの方も何か言うでもなく「ご機嫌よう」と言い残し、それっきり洋館を後にしました。
【結】「痴人の愛」のあらすじ④
ナオミを追い出した譲治でしたが、すぐに彼女が恋しくなります。
気になった譲治がナオミを探し始めると、案外簡単に例のダンスホールにてナオミを発見することになります。
しかし、そのダンスホールでも、ナオミは西洋人の男と遊んでいる様子であり、そんな彼女の様子に呆れた譲治はナオミのことを忘れてしまおうと思いました。
ナオミを忘れるべく生活をしている譲治の元に、ある時ナオミの方から姿を表しました。
ナオミが荷物を取りに来たと言うので、その時は譲治も部屋へ上げましたが、それからナオミは譲治の元へ定期的に姿を表すようになりました。
姿を表すたび、ナオミは譲治が理想としていたような美しさを増していき、ナオミの方もそれを分かってか、譲治を誘惑しました。
譲治は怒りの感情よりも、ナオミが会いにくる日を心待ちにするように、気持ちが変化していきます。
そして、ついに譲治はナオミに提示されたように、ナオミに干渉せず、ナオミが欲するままにお金を出し、ナオミの言うことをなんでも聞くという約束を受け入れてしまいます。
この約束をして、仕事を辞めた譲治は、実家の財産を使って、ナオミに贅沢三昧の生活をさせ、自分以外の男性と遊び歩く様子にも口出しをしなくなりました。
譲治は、ナオミにいなくなられることが、何よりも恐ろしかったのです。
そして、ナオミは23歳になり、譲治が36歳になった現在の時間軸へ物語が進展します。
しかし、現在においても、そしてその後も、譲治はナオミの奴隷として後の人生を過ごしていくのでした。
「痴人の愛」の解説(考察)
この作品は、作者の谷崎潤一郎自身は「私小説」と称していました。
それは、この作品に登場する「ナオミ」のモデルが当時の谷崎の妻だった千代の妹、「小林せい子」だったためだと考えられます。
当時は現在よりも男性社会の側面が強かったため、西洋と日本という比較から自由奔放な女性というキャラクターを用いたのではないでしょうか。
また、この「西洋」が持つ「ハイカラさ」の演出のためにも、名前を「ナオミ」という当時の西洋的な名前にして、「英語を習う」という習い事へとつなげたのではないでしょうか。
「痴人の愛」の作者が伝えたかったことは?
当時の社会情勢も踏まえて考えると、女性崇拝的な考え方だったのではないでしょうか。
しかし、作品を通して見てみると、自由奔放とは言えども熊谷やその仲間に食い物にされるようなナオミの様子からも分かるよう、現在の男女平等の考え方とも異なるように見えてしまいます。
これは、谷崎自身が称したように「私小説」という面があるため、モデルにキャラクターを寄せた結果とも取れますし、「自由な女性」のイメージが「性に奔放である」というようにも取れそうです。いずれにしても、男性社会の中で女性の自由を考えた時の可能性として、大きな意味を持った作品だったと言えそうです。
「痴人の愛」の3つのポイント
ポイント①ナオミズム
冒頭でも紹介しましたが、この作品は「ナオミズム」という言葉を生み出しました。
自由で奔放な女性に憧れを持つ人々が増加し、現在でも日本人の女性の名前として代表的な「ナオミ」を定着させるのにも一役買いました。
つまり、この「痴人の愛」という作品があったからこそ、日本人女性の名前として「ナオミ」が用いられるようにもなったのです。
ポイント②谷崎潤一郎作品の女性像
谷崎潤一郎の作品には、この「痴人の愛」意外にも精神的強さを持った女性や、女性崇拝のような考え方をするキャラクターが多く登場します。
「春琴抄」という谷崎の作品の中に登場するキャラクターも、同様な男女の関係性が現れており、作品ごとの差異を見てみて考察するのも楽しいかと思います。
ポイント③「ナオミ」のモデル
この小説に登場する「ナオミ」に具体的なモデルが存在するというのは驚きですが、谷崎は友人に妻を譲るという事件を起こしているので、作者の恋愛観を垣間見るような作品が「痴人の愛」であるという読み方もできるのではないでしょうか。
谷崎の描く、男女の恋模様は、辛いだけでなく色彩豊かな文章にもなっているので、彼が考えていた恋愛というものを味わうのも良いと思います。
「痴人の愛」を読んだ読書感想
読後、なんとも言えない奇妙な気分になりました。辛いような、「本人たちが幸せならそれで良いか」のような、ハッピーエンドともバッドエンドとも言い難い気分でした。
しかし、作品通して美しい文体で描かれており、ストーリーもわかりやすかったので、恋愛小説というよりは怪奇譚や探偵物のような感覚で、個人的には楽しめました。
主人公の譲治が徐々にナオミの虜へとなっていく部分では、読んでいる側にもナオミの美しさがありありと浮かぶようだったので、さすがは谷崎潤一郎と感じました。
恋愛小説が好きな人だけでなく、小説で少し考えさせられる作品を読んでみたいと思っている方にもお勧めできる作品だったと思います。
「痴人の愛」のあらすじ・考察まとめ
真面目なサラリーマンの男性が、ある日カフェで出会った少女を、理想の女性に育てるべく同棲を始めます。
最初こそおとなしくしていた少女でしたが、徐々に本性を出し、多くの男性と関係を持つようになります。
主人公は一度は怒って少女を追い出しますが、寂しさから少女の虜へなっていきます。
少女が主人公の前に再度姿を表してから、主人公は完全に虜となってしまい、仕事もやめて少女の奴隷として生きていくことを決めるのでした。
女性崇拝や、女性の自由について、非常に考えさせられる作品でした。また、崇拝するような考えがなくても、主人公に感情移入ができるような描写力がある作品でした。
「ナオミ」という名前を定着させたことや、「ナオミズム」という言葉、考え方を生み出したというのも頷ける、素晴らしい作品だったと思います。