人間失格とは太宰治の斜陽、走れメロスにならぶ有名な小説です。
読んだ事が無い方でも名前を知っている方は多いのでは、無いでしょうか。
とても有名な小説ですので、たくさんの方があらすじや考察を書いています。
色んな感想がありますが、シンプルに説明すると以下のような内容です。
- 太宰治の事を書いている
- 救いようのない、破滅的な内容
今回、読んだ事が無い方のために、あらすじで全体の話を説明します。
感想、まとめでこの小説の考察と魅力を説明しますので、興味をもって頂けたら、実際に読んでみてください。
その時の年齢、立場で違った感情を得られます。
人間失格とは?
太宰治が自分自身をモデルにした大庭葉蔵の半生を描いた小説です。
人間失格という衝撃的なタイトルがから興味を惹かれます。
主人公の大庭葉蔵、作品の中で、狂人、廃人と言う言葉で自己表現をします。
それならば、廃人でも狂人でもタイトルは良さそうですが、あえて人間失格という言葉を選び、他人と違う事を人間失格という人間ですら無い強い表現を選んでいます。
そこに、太宰治の強い孤独へのこだわりを感じます。
人間失格の登場人物
私 |
はしがきとあとがきを、記載している人物 俯瞰でこの物語を見ている太宰治自身 |
大庭葉蔵 |
主人公、手記を書き、はしがきで紹介される三葉の写真の男 |
父親 |
直接の描写は少ないが、政治活動行なっており、葉蔵の生活は父親庇護の元なりたっている 人から言われた事に逆らえない葉蔵にとっては、恐ろしい人物 |
長兄 |
大庭家の跡取り、父親代わりに葉蔵が心中未遂、自殺未遂の度、保護者の役割を果たす 父親の死後、葉蔵を故郷に戻す |
竹一 |
中学校の友人 純朴であまり賢く無いが、擦れていないため葉蔵の本質を無意識に見抜く |
堀木正雄 |
悪友、芸術家で知的な部分が葉蔵と合うが本質葉蔵と違い、常識人の枠内の人物 葉蔵に遊び方お教えながらも、同時に絶望を与える人物 |
ツネ子 |
女給、葉蔵と鎌倉の海に飛び込み 一人死ぬ 世間的貧乏たらしさに葉蔵は惹かれる |
ヨシちゃん |
葉蔵の内縁の妻 ヨシ子の純粋さが葉蔵を救うが 犯されてしまうことで葉蔵は更に絶望することになる |
人間失格のあらすじとネタバレ
人間失格は、作者である太宰治視点のはしがきとあとがきが、大庭葉蔵の三つの手記を挟む構成となっています。
はしがき
“私は、その男の写真を三葉、見たことがある。”から始まります。
幼年時代、学生時代、そして最後は、としの頃が分からない写真の三葉の写真とそれを見た私の感想が書いてあります。
幼年時代は、“こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。”と、学生時代は、“こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。
”最後は、“こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。”とそれぞれ、一度も見た事が無かった書かれています。
最後のあとがきで描かれていますが、この写真は、大庭葉蔵の手記とともに、京橋のマダムと思わしき人に預けられたものです。
このはしがきから、太宰治は、大庭葉蔵(以降葉蔵)なる人物は、自分自身では無いと宣言しています。
第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。と言う有名な書き出しから始まります。
葉蔵の幼年期について描かれています。
産まれた家は、東北の裕福な家で、父親は仕事で東京行く事が多い人物で、兄弟も雇い人も多い家でいわゆるお坊ちゃんとして育ちます。
一般的に見れば、恵まれているのですが、葉蔵は常に道化を演じています。
それは、人間に対する恐怖からでした。
この第一の手記では、物質的な恵まれた世界と、葉蔵の精神世界が対比して説明されています。
本文から引用すると、下記の文になります。
“自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。”
葉蔵は、自身の異質さを理解しながらもそれを知られたく無いため、世間と関わる手段として道化を演じざるを得なかったのでした。
第二の手記
舞台は葉蔵の中学校時代に移ります。
ろくに受験勉強をせず東北のある中学校に入学した葉蔵は、相変わらずに、道化を演じます。
しかし葉蔵が侮っていた竹一に「ワザ、ワザ」つまり”わざと”だと見抜かれます。
自分の本質を見抜かれた葉蔵は恐れ、竹一を手なずけようとし、成功します。
そして竹一から、その後の葉蔵につきまとう二つの予言を受けます。
「お前は、きっと女に惚れられるよ」と「お前は、偉い絵描きになる」の二つです。
物語を通じ葉蔵を理解する他人は竹一だけでした。
その後、葉蔵は高校受験に合格し寮生になるも長続きせず、堕落した日々を送ります。
その中で、堀木正雄(以降堀木)と出会い行動を共にするようになります。
中学時代の竹一が葉蔵の内面を見抜くのに対し堀木は葉蔵の外面を利用するようであり、
また時には葉蔵の憧れでもあり、一方で、違う時には葉蔵が恐れる世間に合わせられる堀木の一面は、葉蔵に絶望を与えるのでした。
物語は荒んだ日々を通り第一の心中、正確には心中未遂に進んでいきます。
良く無い遊び覚え、父親が東京の別荘を引き払い生活に困り、葉蔵の絶望深くなっていきます。
その中でツネ子という女給と親しくなります。しかし2回目にツネ子に会った時に堀木は、
ツネ子を貧乏臭い女と断じ、葉蔵はこう考えました。所謂俗物の眼から見ると、ツネ子は酔っ払いが、絡んでキスしようとも思わないような、ただ、みすぼらしい、貧乏くさい女だったのでした。
金の無い物同士の親和から自分からツネ子に恋心を抱きます。
ツネ子は「自分が働くから一緒いたい」と言い葉蔵はそれを断り2人は死を選びます。
鎌倉の海に身を投げ、葉蔵のみが生き残り、肺に病気があることからツネ子を自殺をさせた
事も起訴猶予されたので、罪に問われませんでした。
しかし葉蔵は起訴猶予が嬉しくなく惨めな気分で葉蔵父親からも葉蔵からもヒラメと呼ばれる渋田という骨董商が身元引受人となり引き取られるのを待ちます。
第三の手記
第三の手記は、一と二の2部構成です。
一は、ヨシちゃんと結ばれるまでを描いており、二での不幸を予想させる
“自分にとって、「世の中」は、やはり底知れず、おそろしいところでした。決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、なまやさしいところでも無かったのでした。”で終わります。
それを受けての二は、ヨシちゃんと結ばれ更生(この作品言えば世間一般の価値の中で)した葉蔵は止めたお酒も始め、堀木の影響でまた元不真面目な生活に戻っていきます。
そしてヨシちゃんが犯される大事件が起きます。
その後、葉蔵はアルコール中毒になり、ヨシ子が自殺するよう隠していた睡眠薬で自殺を図りますが、また死ねず、アルコールの次は薬物中毒になり、精神病院に入院、ここで、この作品名でもある「人間失格」と自覚するのでした。
最後は、父親が死に長兄から故郷に帰るように指示受け受け入れます。
故郷での暮らしの中で、自らの苦しみと世間に対しての恐れ、自分自身を受け入れる(諦めると言った方が正しいのかも知れません。)のでした。
そして葉蔵の手記の最後は、下記の文章で結ばれます。
“ただ、一さいは過ぎて行きます。自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人から、四十以上に見られます。”
後書き
はしがきで三葉の写真を紹介した私が、京橋でバーをしていたマダムを千葉県船橋の喫茶店を訪ね、三葉の写真と三編からなる手記を受けとるシーンです。
最後の会話に太宰治が葉蔵を客観視しながらも、分析をしています。
マダムの最後の
“あのひとのお父さんが悪いのですよ」
何気なさそうに、そう言った。私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした”
がこの作品を印象的にしめ括っています。
人間失格の感想
人間失格とは、怖い言葉です。
失格があれば合格があるわけで、何が合格なのか?
そのために、自分消すのが正しいのでしょうか?
葉蔵は人間として世間に受け入れられるため、道化という手段をとっている。
はしがき部分の、一葉目の写真の表情の子供です。
その道化が、よりうまくなり人を、特に女性を惹き付ける美貌の青年、二葉目の写真の男です。
そして最終的にはやはり世間とはうまくいかず、第三の手記の最後の“一さいは、過ぎていきます”。にあらわされている諦めにも似た心境になっています。
この時の、四十代に見られるますという姿が、はしがきの、三葉目の写真のです。
葉蔵というフィルターを通す事で書かれているこの小説は、実際の太宰治の半生を以上に太宰治の心境に思いをはせられる小説です。
それは、太宰治が客観的に見た太宰治の姿に他なら無いからです。
人間失格のあらすじまとめ
感想に書いた通り、太宰治は大庭葉蔵と言うフィルターを通し、読者自分自身伝えています。
客観視し、伝わりやすい言葉で書いてあり、太宰治の気持ちになれたように思えます。
一見するととても読者に、優しい小説です。
一見読みやすいのですが、太宰治が太宰治を客観視見ていると考えて、この小説を読むとまた受取方が変わって来ると思います。
例えば、人間失格本文のあとがきから、
“あのひとのお父さんが悪いのですよ」何気なさそうに、そう言った。私たちの知っている葉lちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした”
の部分は、本心なのか、それとも皮肉なのか考えて見ると面白いです。
また今回紹介しなかったのですが、太宰治独特の表現が私は好きです。
是非読んで探して見てください。
一つは「キスしてあげよう」、もう一つは「一本勝負」です。
最後にちょっと深読みの考察です。
太宰治はこの小説が、完結作としては遺作です。
ここで太宰治の人生を振り返ってみます。
詳しくは省きますが、常に誰かの死が生活の側にあるような人生です。
尊敬していた小説家の芥川龍之介も睡眠薬で自殺しています。
太宰治にとって死は近く、小説家は自殺すると、刷り込まれていた上での人間失格なのでしょうか?
もしくは葉蔵が演じていた道化が、太宰治そのものだと言いたかったのでしょうか?
それとも、自分自身を作品にし、人としては生きていく事の決意の小説なのでしょうか?
そんな事を考えてみても面白いです。